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小沢健二『刹那』このアルバムには消えない熱が込められている

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「小沢健二の世界(6)刹那」

音源は全てCD-Rに焼いて持っていた。
それでも発売を心待ちにしてしまった。
そして購入後はヘビーローテーションになってしまった。
まったく、いつからこんなにファンになったのだろう。
こんなにも「青春」の音になろうとは、当時は思いもしなかった。

これこそ「LIFE」の次に出されるべきはずのアルバムだ。
これが出ていれば、小沢健二はそういう路線の人として理解され、人気も定着していたことだろう。
しかし、だからこそ、彼はそうしなかったのだろう。
一つの方向を選ぶことなく、変わり続けることを選んだ。
それは、あるいは無責任かもしれないけれど、大変で、不安定で、自由で、表現者としては誠実な道だ。

そして、今になってこれらの曲はアルバムになった。
しかも「刹那」というタイトルをつけられて。
時期とタイトルによって、この作品には別の意味が与えられた。
今リリースされるからこそ、単なる「LIFE2」に終わらずにすんだ。

恋愛による爆発するような生の感覚と、それを遥か遠くから見る視点。この、超主観と超客観の対比は、当時の小沢健二のテーマだ。
恋愛を通して「生」に没入する時、魂は高揚し、世界は今までと違った見え方をする。なんでもない風景やなんでもない出来事が妙にくっきりと、輝いて見える。それらの輝ける瞬間の具体的な風景が、小沢健二の曲には異常なほどたくさんちりばめられている。
そして、それらはすぐに(同じ曲の中で)相対化される。それらの美しい風景の断片は、地球という惑星の外から見たとき、あるいは過ぎていく時間の流れの中で、すぐに消え去っていく。
それは絶望でもニヒリズムでもない。
具体的な情景は歴史のなかに消えたとしても、そこにはあるものが残る。「優しさ」と表現されるような、ある気配のようなものが。
そのことはどの曲でも歌われているのだが、曲の中では主観的な情景ばかりが目立ち、客観的な部分は見えにくい。

しかし、長い時間が過ぎた後に、しかも「刹那」というタイトルをつけてそれらがまとめられると、その時点ですでにに客観的な視点は与えられている。
曲の中で歌われている、恋愛のきらめくような時間も、別れの切ない時間も、独りの時間も、それらは長い時間のなかでは、刹那に過ぎない。
そして小沢健二があろうことか売れ、歌番組や紅白にまで出てしまい、輝きを放っていたのも刹那に過ぎないかもしれない。
どんな瞬間も過ぎ去っていく。
そして様々なことのバランスが移り変わっていく中で、その瞬間は二度と戻らない。
しかし、あらゆるものが頂点にあり、全てが輝き、時間がなくなり、世界と溶け合って一つになってしまうような、「永遠」とつながってしまうような瞬間は、確かに存在するのだ。

それは、小さな「悟り」の瞬間なのかもしれない。
ニーチェが言う、「この瞬間があれば、全てのことが再び繰り返しても構わない」と全てを肯定できるよう瞬間なのかもしれない。
そんな瞬間は、一度きりしか来ないかもしれない。
人生のなかで輝きを放つことができる季節は短く、二度と戻らない。
それでも、それは確かに存在したのだ。

そして、その瞬間を形に残せるというのはこの上なく幸せなことで、だからこのアルバムには消えない熱が込められている。

(04.01.13)

掲載元:http://www5b.biglobe.ne.jp/~yo-ta/ozawa/K-OZAWA_setsuna.htm

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