球体の奏でる音楽
小沢健二は、誠実な芸術家だ。
頭がよくて、自分の状況がよく分かっていたら(いや、テレビや雑誌でいろいろ語りすぎてよく分からなくなってたのかもしれないけど)、普通だったら、ライフがあって、その後同じ流れのシングルが続いて、紅白にも出て、次のアルバムは、「シングル満載・ライフ2」で行くでしょう、普通。
そう思って立て続けに出るシングルを買わなかった人も多かっただろうし。そうしたらライフ並に売れて、オザケン人気定着、ということになるだろうに。
だけど、彼はそうはしなかった。
誠実、と言うか、単に後先考えてなくて自分にとって興味のあることしかやりたくなかったのかもしれないが。
そして、いまさら「ライフ2」を出すことに意味が感じられなかったのかもしれないが。
それまでの小沢健二は、知識で武装してでたらめなイメージをばら蒔き(フリッパーズ)、鏡の迷宮を突然ぶっ壊し(フリッパーズ解散)、独りで心の奥底を追求して言葉を紡ぎ出しながら希望の光を見て(「犬」)、ついに人生は手の中に戻って、恋愛の爆発するような感情の光に包まれた(「ライフ」)。
そして、再び光は消え去り、当たり前の日常が戻ってきた。
世界を再獲得した高揚が去った後には、音楽そのものであるような日常が続いていくしかない。
だから、このアルバムは、「日常が音楽そのもの」であるようなベテランミュージシャン達と一緒に、力を抜いて楽しんで作っているようなものになっている。
激しい季節が終わった後の「秋」のような枯れた風景である。
しかし、よく聴くとその枯れた風景の中に、驚くほど深く濃いものがよこたわっている。
またひとつ高い境地に達しているのかもしれない。
(本当は、失恋したからこんなアルバムになっただけなのかもしれないけど。まあそうしたらそれはそれで、自分の人生かけてるよなあ…。)
(掲載元:http://www5b.biglobe.ne.jp/~yo-ta/ozawa/K-OZAWA_4.htm)
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