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小沢健二『天使達のシーン』この世界の美しさを愛しているという告白

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「天使達のシーン」考。

さて、遅くなりましたが小沢健二の「天使達のシーン」について長々と語ります。
長文が嫌いな人はどうぞ読み飛ばしてください。

まず、なぜこの曲について語ろうと思ったかといえば、mixiのオザケンコミュで、この曲についてのトピを読んだことがきっかけです。
それはその曲の歌詞の最後の

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように

の部分について、「神様を信じる強さ」とはどういうことか、という趣旨のトピでした。
新井もこの歌詞に疑問を持つ気持ちってのは良く分かるんですよね。自分自身神の存在は信じていないし。オザケンが神を信じているとも到底思えない。
でも、実際この時期の彼の歌詞には「神様」という言葉が良く出てくるんです。オザケンが言う「神様」って何?それを「信じる強さ」ってどういうこと?
でも、最初にこの曲を聴いた時、この歌詞に引っかかりはあったけど何故か納得できる気がしたんです。
今日はそれを、自分なりにまとめてみたいと思います。くどいようですが長くなります。

まず、自分自身のことから語りましょうか。
新井の母はクリスチャンで、私も生まれてすぐ洗礼を受けさせられ(これって信教の自由の侵害だと思うがどうよ?)、幼い頃は教会で聖書の話を聞かされていました。
でも、どうしても神の実在を信じることは出来ませんでした。
自分は当時かなりの小説好きで、エンデやリンドグレーンのファンタジー小説が大好きな子だったんですが、所詮は聖書の中の「神」も人間の創作としか思えなかったんです。そしてその考えは今も変わりません。
じゃあ何故人間は「神」を創作したのか?
現世利益もあるでしょうね。受験前に御守り買いに行ったり収穫前に豊作祈願するアレ。
でも、それだけじゃないですね。

キリスト教では、よく知られてるように「最後の審判」という考えがあります。
この世が終わるとき、全ての死者に改めて現世の行いに応じた審判が下され、一方は天国に、そして一方は永劫の地獄に落とされるというもの。
なぜこのような物語が創作されたのか?それは間違いなく、この世で行われる善と悪に、何らかの報いと罰があって欲しいという人間の願いからでしょう。
善人も悪人も、人間は皆等しく死ぬ。善人が幸福に生きられるとは限らず、悪人が皆捕まって処罰されるわけではない。じゃあ清く正しく生きることに何の意味があるの?
ちょっと暇してる人なら誰でも考えることじゃないでしょうか。
あるいは、この宇宙はいずれ終わる。人間は必ず滅ぶときが来る。ならば今ここで生きるのは何故?必死で子供を育て、未来に繋ぐのは何故?
「最後の審判」は、この疑問に答えるために用意された仮の回答だと思うのです。(善に報いが、悪に裁きが、そしてこの世の終わりの先に永劫が待っているという物語であるゆえに)
逆に言えば、「最後の審判」というファンタジーを信じられない人間は、何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。
 
話をオザケンに戻しますが、彼もまた、当時同じような疑問と戦っていたように見えます。
以下の文は、「天使達のシーンが収録されたアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」の歌詞カードに書かれた本人のライナーノーツから。

『まず僕が思っていたのは、熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。そのことが冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕らとかその集まりである世の中とどういう関係があって、その中で僕らはどうやって体温を保っていったらいいのか?』

この文章を読み解くには、少し補足が要るかもしれません。
この宇宙のエネルギーというのは、必ず「使用可能なエネルギー」から「使用不可能なエネルギー」へと移り変わっていきます。その逆はありません。
そして、高密度なエネルギーがあれば、それは必ず拡散してしまうということ。凄まじい高熱の凝縮から始まったビッグバンと、膨張しながら温度を下げていく今の宇宙を考えれば腑に落ちることですが。
これが「エントロピーの増大」といわれるものですが、つまりこれは、やがて宇宙が熱的な平衡状態に達して終焉を迎えることを示唆している(と、新井は思う。興味がある方は「エントロピーの増大」とかでググれば腐るほど出てきます。)

これを踏まえて先ほどのライナーノーツを言い換えれば、

『まず僕が思っていたのは、宇宙はどうしても終わっていく、ということだ。そのことが無邪気に化石燃料などを浪費しながら生きている僕らとかその集まりである世の中とどういう関係があって、その中で僕らはどうやって生きていったらいいのか?』

(化石燃料を使えば当然、ちょっぴり余計にエントロピ-が増大します)
とでもなるでしょうか。
やがて終わっていくことを知っていながら、全てがリセットされることを知っていながら、何を頼りに生きていけばいい?
オザケンが思っていたのはそんなことでしょうか。

蛇足かもしれませんが、この1年後のアルバム「LIFE」に収録された「いちょう並木のセレナーデ」の歌詞も紹介したいと思います。

「やがて僕らが過ごした時間や 呼びかわしあった名前など いつか遠くへ飛び去る 星屑の中のランデブー」こうして大事な人と過ごす記憶もいつか消えていくこと。この長い長い宇宙の時間から見れば埋もれてしまいそうなほんの一瞬の時間から、ふと考える宇宙の行方。

まどろっこしいから自分なりの結論を言います。

「天使達のシーン」でいう「神様」とはあくまでも、特定の宗教の神様を指すのではなく、意識を有した神様でもなく、「生きることの意味」の比喩だと思うのです。
「なぜ生きる?終わることを知っていながら」。その疑問と戦っていくための「神様」。

「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」

この歌詞は、「神様」を「生きることの意味」に置き換えればしっくりこないでしょうか。
さらに、アルバムで「天使達のシーン」に続く、「ローラースケート・パーク」のこの歌詞。

「意味なんてもう何もないなんて僕が飛ばし過ぎたジョークさ 神様がそばにいるような時間続く」

では、オザケンが見つけた「意味」って何でしょうか。
それを知るには、「天使達のシーン」の歌詞を一通り読んでもらえば事足りる気がします。どうぞじっくり読んでもらえたら幸いです。

(歌詞、敬愛)

自分がこの歌詞から感じたことは、宇宙の時間から見ればたった一瞬のことだけれども、そしてそれはいつか無くなってしまうものだけれども、それでもこの世界の美しさを愛している、という告白だということです。
「生きる意味」とは、やがて消えていく記憶だとしても、それでも抱いてしまうこの世界の数々の美しい情景(シーン)への愛そのものではないでしょうか。
それを綴ったのがこの「天使達のシーン」。

更に言わせてもらえれば、最後の「にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている」という歌詞。
この歌詞が何故、最も重要な位置である曲の最後に来るのか?
それは、「音楽」こそがオザケンにとって最も愛すべきものであったということです。
97年のシングル「ある光」から。

「神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献」

アーバン・ブルーズとは都会の生活を描いた曲で、要するに当時のオザケン自身の曲もこれだと言う事なんでしょう。
つまり当時、オザケンは音楽を通して「神様」つまり「生きる意味」を感じていた、ということ。
「天使達のシーン」の最後の歌詞は、「にぎやかな場所」、つまりたくさんの人達が注目し愛していた90年代のJ-POPシーンの中で、その中でかかり続ける自分自身の音楽を愛し、そのことに確かに「生きる意味」を感じていたのだと受け取れないでしょうか。
オザケンにとって「神様」とは「生きる意味」であり、「愛」であり、それはすなわち「音楽」であったのだと-そう思います。この4つは、イコールで結んで良いものだと。

最後に「戦場のボーイズ・ライフ」のこの歌詞で締めを。

「この愛はメッセージ!祈り!光!続きをもっと聞かして!」

おわり。4000字も書いてしまったよ…。

(2006/08)

掲載元:http://blog.goo.ne.jp/lotuseater1219/e/4b6d6209ac60273d2ab6f0a013fe786b

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